ついにその夜が訪れた。ぼくは部長室に呼び出され、部屋に入ると彼は言った。
「明日、出発だな?」
ぼくは、立ったまま別れの言葉を待っていた。少しの沈黙の後、彼はこう続けた。
「指示は分かっているな?」
あの頃の飛行機のエンジンは、今ほど安全じゃなかった。突然、予告なく、食器の割れるような音がしては止まった。エンジンが止まると、ぼくらは岩の多いスペインで着陸地点を探さなきゃいけない。でも、それは簡単なことじゃない。
「エンジンが壊れたら、飛行機は終しまいよ」ぼくらはよくそんな事を言っていた。
だが飛行機は替えが効く….だから、岩に突っ込んじゃダメだ。山岳地帯上空の雲海を飛ぶことは固く禁じられていた。雲の上でエンジンが止まったら、白い綿の中に入った途端、見えない山の頂きにぶつかってしまうからだ。
彼はゆっくりと言葉を続けた
「スペインの雲海を、コンパスを頼りに飛ぶのはな、とても美しいものだ」
そして、さらにゆっくりと
「だが忘れるな、その雲海の下は、久遠の世界だ」
白雲を突き抜けた時に突然現れる、静かで穏やかでフラットな世界が、もうぼくには違うものに…、何かの罠に思えてきた。そのフカフカしたどこまでも広がる白い罠。雲の下には、ぼくらが焦がれる人々のあたたかさや笑顔、街のにぎやかさはなく、完全なる無音、落日後の漆黒があるだけだ。
この白い誘惑は、ぼくにとって現実と非現実、愛する人のいる世界といない世界の境界線になっていたんだ。そして、ぼくはわかってきた。見た目の美しさにだまされちゃいけない。文化や文明のバックボーン、その後ろに隠れている見えないものを知らなければ、本当の美しさはわからないってこと。山に暮らす人々も雲海は知っている。だが彼らは、そのカーテンの恐ろしさを知ることはなかったんだ。
Terre des Hommes – 地球の詩 –
アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ
翻訳:佐々木健 with ChatGPT
イラスト:@kokorojin x Midjourney