Terre des Hommes – 地球の詩 – 1. 飛行ルート(3)

部屋を出たぼくは、幼稚な自己陶酔にひたっていた。オレの出番だ。

明け方には、飛行機に客人となるアフリカへの荷物と郵便物を乗せて飛ぶ。責任ある操縦士として。

だが同時に恐怖も感じていた。本当に大丈夫だろうか?スペインには緊急着陸できる場所が少なく、万が一、エンジンに問題が起こったらどうする?紙の地図から回答を得ようとしたが、何も見つけることができず、陶酔と恐怖が入り混じった状態で、仲間のアンリ・ギヨメの部屋に向かった。

本番前の夜、彼こそが希望だった。すでに、このルートの飛行経験があるギヨメは、スペイン上空の秘密の鍵を持っているに違いない。ぼくにはその鍵が必要なんだ。

部屋に入ると、微笑む彼が待っていた。

「聞いたぜ、やったな」

彼は戸棚からポルトガル産の赤ワインとグラスを取ると、満面の笑みで戻ってきた。

「乾杯しよう。大丈夫、うまくいく。」

彼は眩しいほど自信に満ちたオーラに包まれていた。

のちにアンデス山脈越えと南大西洋を郵便飛行で横断する記録の2つを達成することになるギヨメは、その数年前のあの晩、ランプの下で、Tシャツ姿で腕を組み、最高に優しい笑みでぼくに教えてくれた。

「嵐や濃霧、吹雪が行く手を阻むことがある。そんな時はこう考えるんだ。他の奴らも同じ状況を経験したはずだと。他のヤツにできたことが、オレにできないわけがないってな。」

ぼくは地図を広げて、飛行コースを一緒に確認して欲しいと頼んだ。ランプの灯りの元、ギヨメと肩を寄せ合った時、まるで学生時代に戻ったかのようにぼくはほっとした。

Terre des Hommes – 地球の詩 –
アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ
翻訳:佐々木健 with ChatGPT
イラスト:@kokorojin x Midjourney

Terre des Hommes – 地球の詩 – 1. 飛行ルート(2)

ついにその夜が訪れた。ぼくは部長室に呼び出され、部屋に入ると彼は言った。

「明日、出発だな?」

ぼくは、立ったまま別れの言葉を待っていた。少しの沈黙の後、彼はこう続けた。

「指示は分かっているな?」

あの頃の飛行機のエンジンは、今ほど安全じゃなかった。突然、予告なく、食器の割れるような音がしては止まった。エンジンが止まると、ぼくらは岩の多いスペインで着陸地点を探さなきゃいけない。でも、それは簡単なことじゃない。

「エンジンが壊れたら、飛行機は終しまいよ」ぼくらはよくそんな事を言っていた。

だが飛行機は替えが効く….だから、岩に突っ込んじゃダメだ。山岳地帯上空の雲海を飛ぶことは固く禁じられていた。雲の上でエンジンが止まったら、白い綿の中に入った途端、見えない山の頂きにぶつかってしまうからだ。

彼はゆっくりと言葉を続けた

「スペインの雲海を、コンパスを頼りに飛ぶのはな、とても美しいものだ」

そして、さらにゆっくりと

「だが忘れるな、その雲海の下は、久遠の世界だ」

白雲を突き抜けた時に突然現れる、静かで穏やかでフラットな世界が、もうぼくには違うものに…、何かの罠に思えてきた。そのフカフカしたどこまでも広がる白い罠。雲の下には、ぼくらが焦がれる人々のあたたかさや笑顔、街のにぎやかさはなく、完全なる無音、落日後の漆黒があるだけだ。

この白い誘惑は、ぼくにとって現実と非現実、愛する人のいる世界といない世界の境界線になっていたんだ。そして、ぼくはわかってきた。見た目の美しさにだまされちゃいけない。文化や文明のバックボーン、その後ろに隠れている見えないものを知らなければ、本当の美しさはわからないってこと。山に暮らす人々も雲海は知っている。だが彼らは、そのカーテンの恐ろしさを知ることはなかったんだ。

Terre des Hommes – 地球の詩 –
アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ
翻訳:佐々木健 with ChatGPT
イラスト:@kokorojin x Midjourney

Terre des Hommes – 地球の詩 – 1. 飛行ルート(1)

Terre des Hommes
地球の詩

アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ
翻訳: 佐々木健 with ChatGPT

I. 飛行ルート

1926年のことだ。ぼくは、新人操縦士として、後にアエロポスタル、そしてエールフランスとなるラテコエール社に入社し、フランス南部トゥールーズから西アフリカのダカールまで約3670kmの路線を飛ぶ任務についた。

そこで、ぼくは飛行機の操縦を覚えた。ぼくは、仲間たちと同じように栄誉ある郵便飛行の操縦士となる前に、誰もが通る道を経験した。

そう、飛行機のテストフライトや、トゥールーズ=ペルピニャン間200kmの往復、そして格納庫の奥で寒さに震えながら受ける退屈な気象学の授業などだ。

立ちはだかる恐ろしいスペインの山脈の話に恐怖し、ベテラン操縦士たちを憧れの眼差しで見つめていた。

食堂で、ベテラン操縦士らと一緒になるチャンスがあった。彼らはそっけない態度で、近寄り難い雰囲気であったが、広い視野からのアドバイスをくれた。

ある嵐の夜だったと思う、スペインのアリカンテか、北アフリカのカサブランカから遅く帰って来た経験豊富な操縦士が、びしょ濡れの革ジャン姿で入って来た時、仲間のうちの一人が勇気を出してフライトの様子を尋ねると、その短い答えは、ぼくたちを空想の世界に導いてくれた。自然の罠や策略、突然目の前に現れる崖、そして大木を引き抜くほどの竜巻…。闇の竜が谷の入口に立ちはだかり、稲妻の舞が山脈の頂きを煌めかせる。

先輩たちは常に僕らの星だった。でも、時に、我々を導いてくれた偉大な先輩は永遠の星となって、帰って来ることはなかった。

ああそうだ、フランス南部コルビエールで星になったブリーのことを話そう。

そのベテラン操縦士はぼくたちの中に座って、黙って厳かに食事をしていた。そのずんぐりな肩には過酷なフライトの痕跡が見える。その日は、飛行ルート全体が悪天候で、操縦士には山々が泥の中で暴れ回る大砲のように見える、そんな日だった。

ぼくはブリーから目を離せず、思い切って彼に尋ねてみたんだ、空はどうでしたかって。ブリーはぼくの言葉には気づかず、額に皺を寄せたまま黙々と食事を続けていた。

飛行士が悪天候の中で飛ぶ時は、前方を確認するためにオープンコックピットから外に身を乗り出す。すると地上に降りた後も風の音が耳に残り続けることになる。

ようやくぼくの声に気づいたのか、ブリーは顔を上げて、何かを思い出したように突然明るく笑いだした。ぼくはびっくりした。ブリーの笑顔なんて見たことがなかったからだ。

その明るい笑顔は彼の疲れを一瞬のうちに消した。彼は過酷な飛行については何も語らなかった、そして再び俯いて黙って食事を続けた。しかし、この薄暗い食堂の中で、彼のそのずんぐりした肩が、一日のささやかな疲れを癒やすために集まった職員たちの影を消し、神々しい気高さをも感じさせた。

多くを語らない彼の力強い体から、竜を倒した輝ける天使が姿を表したんだ。

朗読・音響効果・編集: 佐々木健

制作の裏側はnote.comで配信

イラスト: @kokorojin x Midjourney

Terre des Hommes 地球の詩/ はじめに

Terre des Hommes
地球の詩

アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ
翻訳: 佐々木健 with ChatGPT

はじめに


親友のアンリ・ギヨメにこの本を贈ります。

アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ

地球(Terre)は、ぼくたちに本よりも多くのことを教えてくれます。なぜなら自然は、ぼくたちの思う通りにはならないからです。

人は自然に戦いを挑む時、はじめて自分自身の非力さを発見します。そして、道具を手にするのです。農夫なら鍬(くわ)や耕運機とかね。農夫は畑を耕すことで、少しずつ自然のことを知ります。彼らがやっと解き明かした真実は、地球にとってはごく当たり前のことなのです。

同じように空を飛ぶこと、定期郵便飛行で空を飛ぶと言うことは、あらためて人間の非力さを感じさせ、自然に挑む難しさを痛感させるのです。

ぼくはいつも、初めて飛行機に乗ったアルゼンチンの夜を思い出します。それは真っ暗な夜で、広い平野に散らばるまばらな明かりが、星のようにキラキラ光っていました。

暗闇の中で光る地上の星は、誰かがそこにいることを、そこで暮らしている人がいることを表していて、不思議な気持ちになりました。

あの星では、本を読んだり、誰かのことを想ったり、おしゃべりを楽しんでいるのかもしれない。

その向こうの星では、宇宙について考え、アンドロメダ星雲を観測することに情熱を注いでいる人がいるのかもしれない。

またあの星では、恋人たちが愛をささやきあっているのかもしれない。

地上に寂しく点在するその星たちは、儚く愛おしいものです。

詩人の星、教師の星、大工の星も、もちろんあるでしょう。

でもそんな中、窓の閉じた星、明かりの消えた星、明かりを灯すことをやめた星もたくさんあります…。

もっと互いに絆を深めようとしなきゃいけない。遠くに見える輝く星、つまり近くに住む誰かと、少しずつ距離を縮めようと努力をするべきなんです。

朗読・音響効果・編集: 佐々木健

制作の裏側はnote.comで配信

イラスト: @kokorojin x Midjourney

第8話「やわらかな芝生」

文:Ricona   ナレーター: 佐々木健

ふと気がつくと

そこはとても広くなっていた

今までキツくてキツくて仕方なかったはずなのに

求めていた以上に広く広くなっていた

立っていた足の感覚が戻ると

眼からは大粒の涙が溢れていた

そして私は

きっと知っているであろう

カーテン越しの向こうに見える影に

ただひたすらに頭を下げていた

何か…

置き忘れてきているような感覚とともに外へ出ると

そこは眩しいほどに晴れていた

世界が一瞬で変わったのかと思うほど

何もかもが不思議に見えた

空を見上げた

雲が浮かんでいた

再び見上げるとそこにはもう

その雲の形はなくなっていた

もしかしたら

必死に求めることなんて

しなくてよかったのかもしれない

ただ深呼吸をして

時に身を任せればいいんだ

それに気がついたあの日の朝は

いまでもずっとわすれない

だから私は今日もこうして生きている

広くなった空き地が

やわらかな芝生でいっぱいになるのを待ちながら

第7話「絵本・星にねがいを」

「星にねがいを」

文:けいちん

絵:いずみ

★あらすじ★

ある日、白熊がお話ができたと、喜んで僕のところにやってきた。星に願いを・・・を聴きながら願いごとをすると・・・。

それは、当たり前のようで、つい忘れてしまいがちな優しさや温かさを想いださせてくれる白熊らしいお話でした。

絵本は、YOMO オリジナル絵本通販サイトで購入いただけます

https://www.yomo-ehon.com/products/28

この絵本は、以前、銀河鉄道の夜のオーディオブックを作った時に、ハープを演奏してくれたいずみさんが、役者の友人のけいちんさんの文に絵をつけて完成した物語です。STORYTELLER BOOKを始めて、誰かお話書いてくれないかなぁとの書き込みに、いずみさんが、もし良かったらと反応してくださり、今回読ませていただくことになりました。けいちんさん、いずみさん、素敵なお話を読ませていただきありがとうございます。

白熊のキャラどうしようかなぁと悩んでストレートに読んで見たら、もう少し壊れている感じ?という感想で、なぜかミュージカル調の仕上がりになりました。星に願いを(When you wish upon a time)は著作権が延長になり存続していますので歌うわけには行かず、自分でメロディを作って歌って見ました。この物語には音楽が必要かなって。

リンクを貼った絵本サイトから、絵本の試し読みもできますので良かったら訪れて見てください。

ナレーター:佐々木健

第6話「神様はスローモーション」

時間早送り研究所の博士は長年の研究をついに完成させました。

「博士おめでとうございます。」

「ああ、研究室でブンブン飛んでいたハチを捕まえたくて始めた研究が、まさかの大理論の発見につながるとはな。ハチの世界では、我々の動きは超スローモーションで見えている。小さいものは大きいものよりも時間が早く進む。時間早送り理論じゃ。」

「博士、それでこの巨大な装置はいったい?」

「うむ、助手君、最近起きている不気味な現象は知っているな?」

「はい。大地を裂くかのような大きくて低い、ごーーーーーーーーって言う音が、世界中に鳴り響いています。まるで地球が悲鳴をあげているような」

「そうじゃ、それをこの装置を使って解決するのじゃ」

「と言うと?」

「多分この音は何らかのメッセージじゃ。ワシの解析ではこうなる。

オ……、オ……、イ……、キ……、コ……

「これが何を意味するかまだわからんが、地球からの、いや神様からのメッセージかもしれん。助手君、もし未来に行ければ、解決できると思わんか?」

「未来に行けるんですか?」

「残念ながら、未来に行くことはできんが、この装置の中で時間を早送りすれば未来が早く来る。我々よりも進んだ文明が生まれるはずじゃ。小さいものは大きいものよりも時間が早く進む。我々を小さくすることはできない。そこで、小さな動物に我々の知能を与え、この装置の中の時間を早送りすれば良いのだ。」

「何だかよくわかりませんが、すごそうです」

「まずはネズミを使ってみよう」

博士の作った巨大な装置の中で、知能を与えられたネズミ達は、すごいスピードで進化を始めます。

「見ろ、すごい勢いで世界が進化していくぞ。二本足で立ったぞ、畑を耕しはじめた。村ができたぞ。村と村が争いながら大きくなっていく。国ができた。」

博士の巨大装置の中で、ネズミ文明はどんどん進化して行きます。

「文字もでき、電気も発明し出したぞ。コンピュータの登場だ。インターネットのようなものができてきたな。さぁ、ここから我々がまだ目にしていない未来の世界が展開するぞ。おや、君、見たまえ。このネズミの科学者と助手、私たちにそっくりだぞ。」

博士と助手は、ネズミ文明の中で自分たちとそっくりな二匹を見つけました。

「驚いた、時間早送り装置を使って未来を見る実験を始めたぞ。これは面白い。ちょっと声をかけてみよう。おーい、聞こえるか?」

———–

ゴーーーーーーーー

オーー、オーー、イーー、キーー、コーー

ネズミの博士と助手が話しています。

「博士、また不気味な音が」

「うむ。神様からのメッセージかもしれん。それをこの装置を使って解明するのじゃ」

ナレーター&文 佐々木健

第5話「みどりの恐竜」

私は夢の中で、私ではない誰かになっていました。
四方を高い壁に囲まれた広い空間にいて、カウボーイハットを被り、ガチャガチャ鳴る靴も履いています。

私は靴を磨きながら、満足そうにこの世界を見ています。

磨き終わると、仲間たちに声をかけ、あたりを見回っています。
私はここではリーダーのようです。

ん?

私は何か落ちているものに気がつき、それを拾いあげ、見つめました。

驚いたことに、その手の中にあったのは、私が小さい頃に大事にしていた恐竜のぬいぐるみでした。
緑色でお腹が白い、そのぬいぐるみを私はいつも持ち歩いていました。

寝るときも、ご飯を食べるときも、お風呂に入るときも、いつも一緒でした。

目や口や、背中にあるトゲトゲを、ガジガジ噛んで、いくつかはもう取れそうになっているところもそのまんまで、確かに私のぬいぐるみでした。

不思議と笑みがこぼれ、懐かしさと嬉しさと、今までなんで忘れていたんだろうという思いが心の中に浮かびました。

私は、そのぬいぐるみを優しく優しく撫でていました。

その時、みどりの恐竜がが笑ったような気がしたところで、
夢は唐突に終わりました。

起きてからもしばらく、私は夢のことを考えていました。
大好きな恐竜のぬいぐるみを噛んでいた自分。

傷つけたり、壊したかったわけじゃないん・・だよな・・・?
でも噛まずにはいられないほど・・・。
寂しかったのかな。

あの夢のカウボーイ、どこかで見たことがあると思ったら、アイツか。

ナレーター&文:佐々木健

第4話「銀河鉄道の夜、サソリの幸い」

“みんなの幸(さいわい)のためならば、

僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない” 

星祭の夜、いつのまにかジョバンニは

天の川を走る小さな列車に乗っていた。

前の席には幼なじみのカムパネルラが座っていて

黒曜石でできた地図を眺めている

今、少年たちの星をめぐる物語が 始まる

賢治は、この物語をどんな思いで書いたのだろう

28歳の若者は、37歳で亡くなるまでこの物語を何度も書き直し

推敲を重ねていた

物語の中で、サソリは語る

“ああ、私は今まで いくつのもの命を奪ったかわからない、その私が今度いたちに獲られようとした時はあんなに一生懸命に逃げて、井戸で溺れて行くだけ。どうして私の体をいたちにやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうか神様。この次には、まことのみんなの幸のために私のからだをおつかい下さい。”

みんなの幸い 本当の幸いを ジョバンニは見つけられただろうか

賢治の思いを乗せて汽車は行く

銀河鉄道の夜

Nokt de la Galaksia Fervojo

ナレーター&文 佐々木健

※今回はビデオ撮影して1発録りに挑戦しました(YouTubeでご覧いただけます)
※サソリのセリフは一部読みやすく変更しています

第3話「『しるこ』 ニューヨーク、パリへ」

しるこ 芥川龍之介

久保田万太郎君が「しるこ」のことを書かいているのを見、僕もまた「しるこ」のことを書いて見たい欲望を感じた。関東大震災以来の東京は梅園(うめぞの)や松村(まつむら)以外には「しるこ」屋らしい「しるこ」屋は跡を絶ってしまった。その代わりにどこもカフェだらけである。僕らはもう広小路(ひろこうじ)の「常盤(ときわ)」にあの椀になみなみと盛った「おきな」を味わうことは出来ない。これは僕ら下戸仲間の為には少なからぬ損失である。のみならず僕らの東京の為にもやはり少なからぬ損失である。

 それも「常盤」の「しるこ」に匹敵するほどの珈琲を飲ませるカフェでもあれば、まだ僕らは幸せであろう。が、こういう珈琲を飲むことも現在ではちょっと不可能である。僕はその為にも「しるこ」屋のないことを情けないことの一つに数えざるを得ない。

「しるこ」は西洋料理や支那料理と一緒に東京の「しるこ」を第一としている。(あるいは「していた」と言わなければならぬ。)しかもまだ西洋人たちは「しるこ」の味を知っていない。もし一度知ったとすれば、「しるこ」もまたあるいは麻雀のように世界を風靡しないとも限らないのである。帝国ホテルや精養軒のマネジャー諸君は何かの機会に西洋人たちにも一椀の「しるこ」をすすめて見るが良い。彼らは天ぷらを愛するように「しるこ」をも必ず――愛するかどうかは多少の疑問はあるにもせよ、とにかく一応はすすめて見る価値のあることだけは確かであろう。

 僕は今もペンを持ったまま、はるかニューヨークのあるクラブに西洋人の男女が7-8人、一椀の「しるこ」をすすりながら、チャーリー・チャップリンの離婚問題か何かを話している光景を想像している。それからまたパリのあるカフェにやはり西洋人の画家が一人、一椀の「しるこ」をすすりながら、――こんな想像をすることは風流人の仕事に相違ない。しかしあのたくましいイタリア王国首相ムッソリーニも一椀の「しるこ」をすすりながら、天下の大勢を考えているのはとにかく想像するだけでも愉快であろう。(終)

※聴きやすくするために、一部修正を加えています。震災は関東大震災に、紅毛人は西洋人、閑人は風流人に、ムッソリーニは肩書きを加えて読み替えました。

文豪・芥川龍之介が1927年(昭和2年)に書いた「しるこ」というエッセイ。お菓子会社の広告として依頼され書かれた文章とのこと。そこに3軒のしるこ屋が登場するのだが、現在まで残っているのは1軒のみ。それが浅草に本店のある「梅園(うめぞの)」である。今では各デパートなどにも出店しているので、お口にする機会もあるであろう。ドラ焼は大きくて美味い。芥川の友人の久保田は、しるこを若い人たちが飲むと言う表現がおかしくてエッセイを書いた。曰く「汁粉は「食う」あるいは「食べる」もので、決して飲むものではない」と。そこからこの物語は始まる。今回、読み手はなぜか喜劇として読んだようです。

芥川龍之介「しるこ」 ナレーター&文 佐々木健